戊辰戦争の時代を歩く、鶴ヶ城
会津若松の中心部にある鶴ヶ城は、戊辰戦争の際に一ヶ月の猛攻に耐え、ただ独り立ち続けた城。
城内を歩いていくと、戦争の出来事そのものよりも、その時代を引き受けてきた場所としての空気が感じられます。
現在の鶴ヶ城は、整えられた天守と広い城域を持つ観光地。
一方で、この場所がどのような時間を背負ってきたのかは、実際に歩くことで見えてくる部分もあります。
以下では、城内を巡りながら、現在の鶴ヶ城に残る風景を追っていきます。
鶴ヶ城
鶴ヶ城概略
鶴ヶ城は、福島県会津若松市にある城です。
地元では現在も「鶴ヶ城」という名称で親しまれています。
正式名称は「若松城」、または「会津若松城」。
1934年に国の史跡に指定された際の名称は「若松城跡」でした。
現在も「鶴ヶ城」「若松城」「会津若松城」と、複数の呼び方が使われています。

鶴ヶ城の前身は、1384年頃に蘆名直盛が築いたとされる「東黒川館」。
1592年、蒲生氏郷が黒川城を大規模に改修し、七重の天守を備えた城へと変わりました。
この時「会津若松城」と名を改め、現在の会津若松市につながる城下町の基礎も整えられます。
関ヶ原の戦い後、再び会津に入った蒲生家を経て、1627年には加藤嘉明とその子・明成が入封。
1639年、五層の天守閣を建て、現在の鶴ヶ城の姿の基礎を築きました。
幕末の戊辰戦争では、約1か月に及ぶ籠城戦が行われ、激しい攻防の末、城は落ちることなく戦いを終え、そのことから「難攻不落の名城」と呼ばれています。

写真:若松城天守閣郷土博物館内より
1874年(明治7年)、鶴ヶ城は一度取り壊されます。
その後、1965年(昭和40年)に市民の寄付などによって天守が復元されました。
2011年(平成23年)には、幕末当時と同じ赤瓦へ葺き替え。
国内で唯一とされる赤瓦の天守が、現在の姿です。

この赤瓦には、会津の厳しい冬に耐えるため、断熱性に優れた鉄分を含む釉薬が使われています。
鶴ヶ城には、伊達政宗、上杉景勝、加藤嘉明、保科正之(のちに松平性)など、名だたる武将たちが城主として名を連ねてきました。
2006年には日本100名城に選定。
1990年には「鶴ヶ城公園」として、日本さくら名所100選にも選ばれています。
天守と城域
日本さくら名所100選にも選ばれていることもあり、鶴ヶ城は桜に囲まれた城として知られています。
画像引用元:TUFテレビ福島ビュー
桜に囲まれた鶴ヶ城
実際、筆者もほぼ同じアングルで撮影していますが、訪れたのは12月。
当然ながら、桜は咲いていませんw

鶴ヶ城公園と呼ばれるだけあって、城域内には多くの桜が植えられています。
その中には、2013年放送のNHK大河ドラマ「八重の桜」で主演を務めた綾瀬はるかさんが植樹した桜もありました。

2011年の東日本大震災で大きな被害を受けた福島県。
メッセージボードによると、この桜は福島の復興を願い、「はるか」と名付けられています。

現在の鶴ヶ城周辺は、穏やかな公園として整えられ、城域を歩きながら天守を見上げることができます。

石垣や瓦を見ていると、かつてこの城を死守しようとした人たちの姿が、自然と頭に浮かびます。
会津藩士や、この地に生きた人々が守ろうとしたもの。
その中心にあったのが、「義」という言葉だったのでは?
城の前に立っていると、筆者はそんなことを考えていました。
鶴ヶ城天守閣:若松城天守閣郷土博物館
鶴ヶ城天守閣内は、各層ごとにテーマを分けた展示構成の郷土博物館です。
入場料は茶室麟閣との共通券で520円。
天守閣のみの入場券も410円あります。

展示内容は非常に充実しており、この内容で520円(もしくは410円)という価格は、正直かなり良心的に感じました。
天守閣内は一層のみ撮影禁止で、他は撮影OKです。

展示を見ていく中で、戊辰戦争後に「賊軍」とされた会津藩の人々が受けた苦難や差別について、少なからず理解が深まります。
筆者は地元が広島のため、幕末の歴史はどうしても長州藩側の視点で見ることが多くなります。
ですが、飯盛山で地元の方の話を聞き、この天守閣で資料を見て回るうちに、考えさせられる点がいくつもありました。
会津藩には、1803年に創設された藩校「日新館」があります。
天明の大飢饉などを背景に、教育による人材育成と藩政改革を目的として設けられた藩校です。
その影響があるのでしょう。
日新館出身だけでなくそれ以外からも、会津から多くの人材が輩出されました。
日本で最初の物理学博士であり、東京・九州・京都の各帝国大学総長を務めた山川健次郎。
高等師範学校(現・筑波大学)や東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の校長を務めた山川浩。
そしてその妹で、津田梅子とともに女子英学塾(現・津田塾大学)の設立に関わった大山捨松。
山川健次郎は、国費留学生としてイェール大学で物理学を学んでいます。
筆者にとってイェール大学といえば成田悠輔氏。
正直なところ筆者は、その存在で大学名を知ったようなものでした。
籠城戦の日ごとの出来事を説明する展示の中に、「中野竹子、敵弾に倒れる」という一文があります。

飯盛山で地元の方から聞いた名前が、この中野竹子でした。
「八重の桜」で新島八重が全国的に知られているが、会津で勇猛果敢な女性といえば中野竹子なんだ」。とそう教えられた言葉が、展示と重なります。
展示を一通り見て回り、最上層へ。
会津若松の街並みを一望できます。
会津盆地全体が見渡せる場所ですが、やはり視線が向かうのは飯盛山でした。

飯盛山から鶴ヶ城へ訪れたこともあり、展示内容や景色を含め、見応えのある天守閣でした。
茶室 麟閣
茶室麟閣(りんかく)は、鶴ヶ城公園内にある茶室です。

茶室麟閣に入ると、鶴ヶ城公園の中でも、空気が少し変わるのを感じました。

1591年(天正19年)、豊臣秀吉によって 千利休 が切腹を命じられ、千家は存続の危機に立たされました。
このとき、会津藩主の 蒲生氏郷 は、利休の子・ 千少庵を会津にかくまっています。
その後、徳川家康とともに千家再興を秀吉に願い出た結果、1594年(文禄3年)に少庵は許され、京都へ戻って千家を再興しました。
少庵の子・ 千宗旦 によって茶道は受け継がれ、宗左・宗室・宗守の三人の孫によって、表千家・裏千家・武者小路千家の三千家が興されます。
現在につながる茶道の基礎が、この時代に形づくられました。

麟閣は、少庵が会津に滞在していた間に、氏郷のために建てられた茶室とされています。
戊辰戦争後は城下に移築され保存されていましたが、1994年(平成2年)に建造当初の地へ移築復元されました。

麟閣は、東日本では珍しい草庵風の茶室です。よく手入れされた庭とともに、侘び寂びの精神を感じさせる空間が広がっています。

左側茅葺屋根の建物が茶室
庭を眺めながら、お抹茶を一席600円(お菓子付き)で楽しむことができます。
歩き疲れた体を休める場所としても、ちょうどよい存在です。
お菓子には、添加物を使わない薯蕷饅頭(じょうようまんじゅう)が出されることもあり、こちらも人気とのこと。
今回は時間の都合で立ち寄れませんでしたが、あとから振り返ると、少し勿体なかったと感じました。
なお、筆者は鶴ヶ城天守閣との共通券(520円)を利用しましたが、茶室麟閣のみの入場券(210円)も用意されています。
鶴ヶ城稲荷神社
鶴ヶ城稲荷神社は、福島県会津若松市の鶴ヶ城公園内に鎮座する神社です。
鶴ヶ城の守り神として祀られており、築城当初から信仰されてきたと伝えられています。

鶴ヶ城稲荷神社の特徴の一つは、愛らしい「狛狐」たち。
重厚な石造りの明神鳥居をくぐると、編み笠をかぶった姿が特徴的で、左右に3対、計6体が参拝者を出迎えてくれます。

鶴ヶ城稲荷神社には、築城にまつわる伝承も残されています。
芦名直盛が鶴ヶ城の縄張りに苦心していた際、祈願ののちに霊夢を見て、雪の中に残された狐の足跡を頼りに縄張りを定めたという話です。

御朱印は、鶴ヶ城から車で約10分の場所にある 蠶養國神社 で拝受できます。
御朱印には、拝殿の神社幕と同じ会津葵の印が押されています。


天守や茶室麟閣とはまた違い、城内に残る信仰の場所として、静かに立ち寄れる神社でした。
蠶養國神社(こがいくにじんじゃ)
蠶養國神社は、福島県会津若松市にある神社です。
古くから養蚕の守り神として信仰され、地域の暮らしとともに歩んできました。

参道の入口には石の鳥居が立ち、奥へ進むと赤い鳥居が現れます。

御祭神は三柱で保食大神(うけもちのおおかみ):五穀豊穣をもたらす食物の神様、稚産霊大神(わく御祭神は、保食大神、稚産霊大神、天照大御神の三柱。
養蚕をはじめ、農業や産業全般の繁栄を願う信仰が受け継がれてきました。
拝殿の御神灯に記された神紋は、会津葵。
会津藩との関わりを感じさせる意匠です


境内には、推定樹齢1000年以上と伝わるエドヒガンザクラの御神木があります。
1010年(寛弘7年)に植えられたとされ、「峰張桜」とも呼ばれています。

4月19日には『桜花祭・春季大祭』が斎行され、濁酒を供え、桜を愛でる行事が今も続いています。
かつて雷に打たれて折れたあとも、花を咲かせ続けている桜。
境内でひときわ目を引く存在でした。
また境内には神楽殿もあり、例祭の際に太太神楽(だいだいかぐら)が奉納されています。

御朱印には、御神紋の会津葵の印が押されています。

社務所で「鶴ヶ城稲荷神社の御朱印も頂けることから、何か関係があるのか?」と尋ねたところ、「関係は一切なく、ただ管理を行っているだけ。」とのことでした。
まとめ・感想
っという感じで、鶴ヶ城と蠶養國神社を訪れました。
鶴ヶ城は、前日に訪れた飯盛山とあわせて、戊辰戦争や白虎隊といった出来事と強く結びついて語られる場所です。
筆者の地元が広島ということもあり、幕末史はどうしても長州藩目線になりがちでした。
そのため、「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉も、これまで特に違和感なく受け入れていたように思います。
しかし、飯盛山で地元の方の話を伺う機会があり、あらためて幕末史を見つめ直してみると、「決して会津は賊軍ではなかったのではないか」、そう感じるようになりました。
ましてや、降伏後の会津藩に対する扱いについては、筆者自身、疑問を持たずにはいられませんでした。
1928年には 秩父宮雍仁親王と会津藩主 松平容保 の孫娘である松平勢津子様が成婚しています。
また、現 秋篠宮紀子様の高祖父が会津藩士であったことも、会津が単なる賊軍(朝敵)として片づけられる存在ではなかったことを示しているように感じました。
今回、飯盛山から鶴ヶ城へと足を運んだことで、展示内容や景色の受け取り方が、自然と一本の線でつながったように思います。
鶴ヶ城は、歴史を学ぶ場所であると同時に、歩くことで少しずつ見え方が変わっていく場所。
そんな印象を残した、会津若松でした。
おわり


コメント